元気力発言所!

「我が人生、我が事業(第3回)」
     ヒガキ国分(株) 相談役
     山口県流通センター卸事業(協) 理事長  
檜 垣 仙 介
     山口県中小企業団体中央会 理事

 大型冷凍冷蔵倉庫を武器に

 昭和50年には、防府市新田の3,600坪の土地に3,000トン
の冷凍冷蔵倉庫を建てた。
檜垣商店と冷凍エビの正栄水産さん、蒲鉾の松富商店さん、スーパー丸
信さんの子会社である丸信鮮食さんの4社で防府冷凍冷蔵協同組合を組
織して、商工中金から多額の融資を受け、当社が母体となって造ったも
のである。
それぞれの組合員が自社で使うほかにも、ニチレイ、加卜吉、マルハが
蒲鉾のすり身や原料等の保管に使用し、自社冷蔵庫兼貸冷蔵庫として稼
働させた。
 当社ではこの冷蔵庫を武器に、漬物、練製品、牛乳、乳製品、納豆、
煮豆、生麺、豆腐などのチルド食品分野、アイスクリーム等の冷菓分野、
そして冷凍食品の分野を攻めていった。昭和44年、農林水産省は冷凍
食品の普及のために、日本冷凍食品協会を発足させた。協会発足後10
年間の発展は目覚ましく、昭和44年に100品目以下であった冷凍食
品の種類は、53年には1,000品目を超える。
冷凍冷蔵庫や電子レンジの普及もあって、フライ、ハンバーグ、餃子な
どの調理冷凍食品は急速に一般家庭の食卓に浸透していった。
 昭和53年にこの冷蔵倉庫を5,000トン規模に拡張し、それにあ
わせて低温食品部を設置した。マイナス0℃からプラス5℃をチルド食
品というが、これは「なまもの」であり年中無休、ほとんど24時間体
制での物流管理が必要となる。加工食品の業務の流れとは馴染まないた
め、組織も分けたのである。
 冷凍冷蔵庫を作った直後に、旭食品さんが山口県に進出してきた。旭
食品さんは加工食品は自社倉庫を造り、低温食品については防府市内に
ある美祢冷蔵さんの5,000トン級冷蔵倉庫を借りて営業した。これ
がナショナルホールセラーの県内への進出の先駆けである。
大型冷蔵庫という施設を持たなければ、この時点で低温部門は太刀打ち
がならず、市場は制覇されていたと思う。
 山口県というところは、10年に1度くらいの割合で台風の被害を受
ける。昨年、平成11年の台風18号による影響は山口宇部空港が浸水
で一時使用不能になるなど、大きいものだった。停電も1日半ほど続い
た。しかし、平成3年の台風19号の停電は、高圧送電線が相当数倒れ
たため、復旧までには防府市内のみ1週間という長期間を要した。
 生活にもさまざまな不便が出たが、いちばん気をもんだのはこの冷蔵
倉庫の問題だった。停電が始まったところから、出庫の停止と倉庫の扉
の閉め切りを指示した。こうしておけば、内部の温度上昇は最低限で食
い止められる。それでも、マイナス25℃だったものが、刻々と上昇し
ていく。それこそ温度計とにらめっこだった。内部の温度は、ついにマ
イナス20℃を超えた。そろそろアイスクリームは危ない温度である。
 日に何度も問い合わせの電話をかけ、やっと、中国電力の保安協会か
ら「発電機を都合しましょう」という返事があったときは、本当にほっ
とした。発電機は停電後4日目に設置され、保管品はなんとか無事だっ
た。
 株式会社檜垣商店は、昭和55年にヒガキ通商株式会社に社名を変更
する。
 早くから加工食品を扱ったこと、スーパーマーケットに食い込み、広
域流通を行ってきたこと、大型低温倉庫という武器を持ったことなどが
功を奏して、売土は増加を続け、57年には年商50億円を超えること
ができた。同年徳山市の近鉄松下百貨店さんのなかに、直営食品店「近
鉄松下ショップ」も設置した。

 生き残りを賭け、実を取った提携

 しかし、このときすでに流通の構造変革は加速度的に進展し、私は地
場の卸業の将来の不安を痛感していた。スーパーマーケットは大型化し、
二次問屋を中抜きにし一次問屋と結び付きはじめていた。さらにはメー
カーと直接取引ということも始まっていた。当社の場合、まだ数字的に
は表れていないが、早晩、業容も細り始め、ついには消えていくばかり
であろうと思われた。
 将来の可能性を広げ、100名を超える社員を守るためには、いまな
にをなすべきか。時代を見据えた素早い決断が求められていた。さまざ
まに情報を集め、選択肢を検討して、生き残りのために私が出した最後
の結論が、国分さんとの提携だった。一方国分さん側でも、当社の持っ
ている低温流通施設と運営のノウハウに魅力を感じてくれた。国分さん
はこの部門が比較的手薄だったのである。双方の利害が一致し昭和61
年に業務提携を締結した。30%の株式を国分さんに持ってもらい、出
向者2名を受け入れた。
 当時は「国分の傘下に組み込まれて、ヒガキもこれでおしまいだ」と
他人の目には映ったようである。私の心のなかに、葛藤はなかったとい
えば嘘になる。しかし私としては、悩み抜いた末に到達した「古いこだ
わりにしがみついていては、未来は生まれない。名を捨て、実を取るべ
きである」という前向きの決断だった。
 その頃から山口県を舞台に、地場の卸業、大手食品問屋入り乱れての
シェア争いが激しくなる。大手が直接山口に拠点を構える例も出てきた。
昭和61年には、旭食品さんが、できたばかりの山口県流通センターに
入ってきた。その3年後には、広島のニイミ食品さんが山口市郊外に山
口支店を出した。スズヤさんは菱食さんと提携した。60年代に入って
から現在まで、県外勢では旭食品さん、加藤産業さん、三友食品さん、
雪印アクセスさん、明治屋さん、コゲツ産業さん(現在では撤退)、ニ
イミ食品さんが進出し、地元勢では和田又さん、新光さん、山口リョー
ショクさんなどと、しのぎを削ることになる。そうしたなかで、大手の
枠組みをはずれた地元卸のいくつかが廃業・倒産に追い込まれていった。
そのような戦国模様を生き延びるために、国分さんとの提携によるプラ
スは大きかった。
 経営面では、このような激しいシェア争いの最中にも、取引先を計数
管理し、一定に満たない所は取引を縮小した。当然に提携後数年の売上
は低下している。しかし、その間、経営体質は確実に強化された。
 また、物流・情報力でも見るべきものが多い。特にコンピュータシス
テムでは、大手のカを見せつけられた。当社では昭和48年からすでに
コンピュータを導入していたが、新しく導入した国分さんの「WINGシス
テム」と比べると、まったく未熟であった。
 こうした体質の強化、業務の合理化の努力が実り、提携数年後から年
商は再び力強い上昇を開始し、平成9年には100億円を突破する。

 山口県物流センターを本拠とする

 昭和61年は、もう1つヒガキの新たな歴史のページを記す出来事が
ある。創業の地、防府を離れ、本社と物流センターを「山口県流通セン
ター」内に新築移転したことである。
 山口県流通センターは、中国自動車道の小郡インターから、約2キロ
の所にあり、アクセスがきわめてよい。県内のどこへでも車で1時間あ
れば行ける。
 流通センターの建設は昭和48年のオイルショックの経験から、当時
の平井山口県知事の音頭で計画された。オイルショックのときには、ト
イレットペーパーなどの商品が市場からなくなってしまったり、値段が
不自然に高騰した。そこで、業者を誘致することで、県内に在庫を持ち、
商品の安定供給を行うことを目的とした計画だった。
 流通センターには卸売業を中心に運輸、倉庫業、石油売業など60数
社が立地し、大手の卸売業、中小の卸売業、運輸業、石油売業の組合が
それぞれ組織されている。そのなかで有力な中小の卸売業者を組織した
ものが「山口県流通センター卸事業協同組合」である。私は昭和58年
の組合設立のときから、理事長を務めさせていただいているが、それを
評価していただき、平成9年に中小企業庁長官賞を受賞したことは光栄
である。
 
 流通変革のなか、フルライン化を目指す

 平成5年に、ヒガキ通商株式会社はヒガキ国分株式会社に社名変更す
る。その頃国分さんと提携した他の地方卸でも、国分の名前を入れた
「冠国分」の社名に変更する会社が多くなっていた。「国分」の2文字
は、取引の際のネームバリューになった。これを活用しない手はない。
当社が全国展開をする量販店やコンビニエンスストアと取引を果たした
のも「国分の冠」に負うところが大きい。
 平成6年には本社に隣接してCVSセンターを設置する。私が初めてコン
ビニエンスストアを目にしたのは昭和46年、日本生産性本部主催の
「渡米卸小売業視察団」に参加したときである。そのときに見たコンビ
ニエンスストアには、初めてスーパーを見たときのような新鮮な驚きが
あった。こうした組織小売には、もはや従来の中小小売業では、よほど
大胆な経営刷新を図らなければ太刀打ちができないと感じた。いずれ日
本に入ると思ったが、昭和48年には日本にもセブン・イレブンの1号
店が東京の豊洲にオープンした。
 山口県では、当社の取引先である地場のスーパー、丸久がいち早く
「パコール」というコンビニエンスストアを展開した。その後、丸久は
パコールをローソンに譲渡し、その関係で、現在、当社では県内のコン
ビニエンスストア130店舗に加工食品、酒類、菓子類、日用雑貨のベ
ンダーの役目をしている。
 こうした流通大変革の時代にあって念頭に置いたものは、商品のフル
ライン化だった。
大型倉庫にスーパーやコンビニエンスストアで売られている加工食品、
菓子、塩干品、チルド食品、飲料、酒類といった品目を揃えて、注文品
をそこでピックアップして一手に配送効率を上げ、願客の利便に貢献す
る。ここでヒガキ国分に欠けていたカテゴリーは菓子であり、酒類であ
った。特に酒類は、卸免許の取得、メーカーとの取引口座の開設も難し
いが、魅力的な商品だった。
 そのような折、流通センターに入っていた藤井酒販との合併話が持ち
上がった。同社ではディスカウンターの出現で、苦戦を強いられるよう
になっていた。そこで、提携をして活路を開こうということになったの
である。平成11年には周東酒販も吸収し、山口県東部にも酒類の販路
を広げていった。
 私は、平成9年7月に取締役会長に就任、平成11年には、相談役に
退いた。これからのちは、若い世代の時代であると思う。現在、ヒガキ
国分では、藤枝哲也社長のもとで、私の息子の檜垣直行と、松永閑治氏
の子息で私の甥に当たる松永雅利氏が常務取締役として会社の経営に携
わっている。世襲とかいうことではなく、彼らには存分に実力を発揮し
て、新たなヒガキ国分を創ってもらいたい。その今後の活躍を楽しみに
している。

 すばらしき2000年代に向けて

 ヒガキ国分を含めた食品卸業や県のすべての企業が発展し、県民の豊
かな生活を実現していくためには、山口県自体の発展が不可欠である。
そこで、重要なことが県都・山口市の経済的な中枢機能の充実である。
大内氏の城下で「西の京都」と称されていた趣のある町ではあるが、い
かんせん産業・経済面が弱い。例えば日本銀行の支店は下関市にある。
県庁所在地で日銀の支店がないのは、山口市だけである。
 全国的に市町村の合併が進んでいるが、山口市も小郡町、秋穂町との
合併話がここ10年来くすぶり続けている。小郡町は、山陽新幹線の駅
と中国自動車道のインターチェンジのある交通の要衝である。小郡に秋
穂、そして防府市までを含めた合併で、新山口市が誕生すれば県都とし
ての機能も充実し、さらなる地域の発展が期待できると思う。
 さて、私は平成11年に満70歳となった。自分から「70の手習い」
と称して最近、手を染めたものにパソコンがある。
 ヒガキ国分では社員の1人1人にパソコンが行き渡り、業務もパソコ
ンなしには進まない。また、山口県流通センター卸事業協同組合の職員
の皆さんも仕事に使いこなしている。
しかし、先頭に立って経営に当たっていた頃には、習う時間がなかった
し、また積極的に習おうとも思わなかった。それが、いくぶん時間もで
きた頃に、元ナスパルタックの社長であった夏川昌三さん(元防衛庁夏
川統幕議長の長兄)がやってきて、「檜垣さん、これからはパソコンを
扱えなければ流れに遅れる時代ですよ」という。聞けば、夏川さんは、
すでに自分用のパソコンを持ち、かなりの腕前であるような口ぶりだ。
 友人の夏川さんがやっているということで、私もという気になった。
早速パソコンを買ってきて、ワープロから挑戦を始めた。キーボードを
ぽつぽつ叩いて、つっかえるたびに卸事業協同組合に電話をかけて、原
川哲昭専務理事、栗谷強志次長、岡三津子主任に「入力」、「保存」、
「印刷」といった操作を尋ねる。彼らが私のパソコンの先生である。
 同組合が主催した「インターネット教室」にも参加した。これは夕方
の6時から9時までの3時間、5日間で開催され、メールの受発信から
ホームページの閲覧、作成までがコースとなっている。参加者20名の
うちでも私がいちばん年長だった。
 私はまた別に防府冷凍冷蔵協同組合の理事長も務めている。こちらの
専務理事である竹田泰郎氏は、私がパソコンを始めたことを知って「檜
垣理事長、うちの組合員には、消費者に直接販売する商品を扱っている
ところもあるのですから、ぜひオンラインショッピングのできるホーム
ページを作りましょう」と大いに乗り気になっている。
 インターネットをいじっていて感じることは、情報が手軽に広い範囲
に発信できるようになったこと、それを個人のレベルで活用できるよう
になったことである。例えば、冷蔵協同組合のホームページで地元産の
水産物を売り出し、それを、遠隔地の個人個人の消費者から直接注文を
受け付けることも可能だ。
 小売業がメーカーから直接商品を仕入れる「卸業、中抜き」の流通変
革が進んでいると述べたが、さらに生産者を広い地域の消費者にまで直
接結び付けてしまうインターネット変革が同時に進んでいる。支払いも
電子マネーでされるだろう。この場合、小売から卸まで流通業者のすべ
てが「中抜き」の対象になるのである。
 こうしたインターネット時代における流通業者のあり方が問い直され
ている。卸業、小売業はその役割をどこに求め、どう変化していけばい
いのだろうか。こうした情報技術の急速な変革を脅威として感じるので
なく、流れを敏感に察知し、それにいち早く乗るための大きなチャンス
としてとらえたい。
 私たちは2000年という大きな節目の年に生きている。歴史のなか
でこの年に生存しているということは、きわめて稀有なことだ。
また、数字の節目というだけでなく、物事がより急激に変化している時
代である。新しい時代が、さらにすばらしい時代になることを心から祈
念している。 (了)

<企業概要>
●ヒガキ国分梶♂チ工食品、低温食品、酒類の地域一番卸として、国分
グループの中国西部地域の要となっている。平成10年に創業80周年
を迎えた。資本金3,000万円、従業員数160名、パート60名、
年商160億円、本社山口市朝田字流通センター内

【*山口県流通センター卸事業(協)編集「我が人生、我が事業」より】

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Last updated on 2000.4.20