元気力発言所!

「床屋今昔物語」 協同組合レオン山口 理事 福井 信人 

ヘアーサロンまるぜんの福井です。、宇部市内で理容室を1店舗と美容室を1店舗経営しております。
理容の方は創業以来50年以上を経過しています。
私は2代目で、いや正確にいえば、祖父が島根県の柿木という山間の小さな村で理容所を開設していたことがあるので3代目ということになります。
宇部ロータリークラブのお客様から床屋のことについて話してくれないかといわれ、一瞬とまどいました。実は私自身は理容業を営んでいながら、床屋についてはあまり知りませんでした。
それどころか、床屋といえば何か古くさい感じで、そう呼ばれることに抵抗を感じていました。床屋的でない近代的な理容のお店づくりを目指そうと思ったものです。
しかし、こうやってみなさまの前で床屋について話せるおかげで、改めて床屋について深く知る機会を得ることができました。
いろいろ調べていくうちに、どうも床屋の発祥の地は山口県であることが分かりました。

今から730年前、鎌倉時代の後半 亀山天皇の頃に御所の警備の責任者であった守護職の「藤原基晴」が宝刀紛失事件の責任をとり、その職を辞して宝刀を探すため三男のうめ の す け采女之亮を連れて下関にやってきました。
当時は蒙古襲来で風雲急を告げ、多くの武士たちが九州と本州を行き来していました。下関は多くの武士たちでごった返していたのです。
基晴は、宝刀探索のため武士の身辺に接触する都合上、髪結いの技術を学び店を開きました。
店の中に床の間を設け、亀山天皇と藤原家をまつる立派な祭壇があったので、人々はいつとはなしに「床の間のある店」→「床場」→「床屋」という屋号で呼ぶようになりました。
これが床屋の始まりです。床屋という呼び名は下関で生まれ全国に広まっていきました。
基晴が亡くなり、三男の采女之亮がついに宝刀を見つけだし天皇に奉還しました。
朝廷から再び使えるよう勧められましたが辞退して鎌倉に移り住みました。鎌倉では京都風の髪結い職として一躍有名になり幕府から屋敷など賜り大々的に髪結いの業「床屋」を広めました。

その後、子孫も代々髪結い職を続け江戸時代になると幕府から江戸八百八町の営業件と全国を自由に往来できる特別待遇を受けたのです。
つまり、関所を通るのに通行の切符亡き者は通行を禁止されていましたが、床屋は切符がなくても台箱といって「櫛道具入れ」を持っていれば自由に通行が認められていたそうです。
また幕府から仕事の手伝いを依頼されたりしました。また、与力同心に追われた犯人も床屋の主人が引き受けたら無条件で任されたそうです。
訓戒で帰らせるか、連行して突き出すか、また、同情すべきものは食客として自分のところへおいて適当な職を探して生活の道を与えるという、警察に協力して社会に奉仕したり、一般社会からずいぶん信頼されていたようです。

江戸時代、商工業が発展するに連れて庶民の生活も派手になり、関ヶ原の戦いで主君を失った浪人の多くは「男髪結職=床屋」となり、その子女も「女髪結職=髪結」となって生計を立てるようになりました。
そして日本独特の服飾文化の発展に貢献し、あの華麗な歌舞伎俳優の髪型や浮世絵の源流になったともいわれております。
今まで古くさいとしか思っていなかった床屋にこんな歴史があったとは私自身にとりましても大変なカルチャーショックでした。

明治維新で時代は大きく変わり、“散髪頭をたたいてみれば文明開化の音がする” 
“丁髷頭をたたいてみれば因循姑息の音がする”という歌が流行しました。
断髪令が施行され、床屋が散髪屋に変わりました。散髪をして洋風にすることは思想的大革命の第一歩だったのです。
これは、髪(ヘアスタイル)というものがその時代の文化や思想と深くかかわっていたという証拠だと思います。

床屋というところは情報の発信基地であったと同時に、情報交換の場でもありました。
そういえば、私の祖父の店では、村長さんや校長先生などはじめ村の人がたむろをして、店の待合いで碁や将棋をしながら話に花が咲き、非公式な情報交換の場になっていたようです。
私のお店でもそうですが、いろんな職種の方がお見えになります。会社の社長さんから社員の方や、お医者さんに学校の先生などあらゆるジャンルの方がお見えになります。
そして、床屋の店主は意外と物知りが多いのです。政治の話もできますし、経済の話もできます。色々な人と接して耳学問をしていますから、広く浅く何でもこいというところがあります。
どこかの評論家ばりで、政治でも経済でもパチンコの話に至るまで、自分でやらなくても何でも知っています。
床屋は、「髪」を通して常に新しいものを提供し、地域の情報交換の場としての機能を場所柄持っているのです。
そしてこれからの時代、床屋のキーワードは「ネットワークづくり」だと思います。

地域の方々とどのくらい親密に関わってゆくことができるか。「髪」を通してどのような情報を提供できるのか。この2点だと思います。
私事で恐縮ですが、私のお店ではこの4月(平成9年)よりホームページ開設しました。インターネットというものが、この床屋、今はヘアサロンですが、このネットワークづくりに最適だと考えたからです。
ホームページを出そうというときに、ホームページに躊躇しているある業界の方からいわれました。
「床屋にとって何のメリットがあるの」「何の儲けになるの」というものでした。
確かに、儲けからインターネットを始める方も多々あるとは思います。ビジネス最優先のホームページも確かにたくさんあります。
しかし、それだけでもないのがインターネットのおもしろいところだと思っております。

私のホームページには、髪に関する情報、正しいシャンプーの仕方などの他に、お店のスタッフの情報やお店で起きたユニークな小話など親しみのわく内容になるよう心掛けています。
例えば、スタッフの一人がライブハウスでバンドをやっていることなども情報として載せています。その情報が基で、ライブハウスに興味を持った人が私の店の客になり、結果的には商売に結びつくわけで、儲けを先行させなくても結果的にビジネスに結びつく場合もあります。
しかし、そんなことよりも地域の中に深く関わってネットワークを創ることの方が重要なのです。
ホームページ開設以来5ヶ月で約8500件のアクセスがありました。
もう少しで1万件を越えます。もちろん、日本全国からですが、宇部市内の方からのアクセスも結構あります。
来店されたお客様からも「ホームページ見たよ」といわれる方も結構いらっしゃいます。
こちらからホームページ見てくださいという場合もあります。来店されたお客様に接する時間はせいぜい1〜2時間です。
お店のイベント情報や抜け毛に対するアドバイスなど、来店されていないときでもお客様と関わりがもてるとしたら、お客様が「予約の情報が知りたい」「新しいメニューはどうだろうか」といったときにはいつでもアクセスできるのがインターネットです。
私のお店は、来店されなくてもお客様への情報発信ができ、情報交換ができるこれからの床屋づくりを目指しています。

床屋というのもその時代には新しくても、やはり現代では古い言葉には違いありません。
江戸時代が床屋、明治時代は散髪屋、現代はやはりヘアサロンという言葉が適当ではないかと思います。
そして最近では、徐々にではありますが若い人の間で職人がいいという言葉を耳にします。
自分の腕で稼ぐということに魅力を感じているのかもしれません。
心理学でマスローの欲求段階というのがあります。最上位が確か自己実現だったと思います。
名誉とか地位、あるいは組織の中といった社会的欲求段階を越えて、やりたい、やりがいのあるといった自己実現の時代だと思います。
そういった意味で、この床屋、いやヘアサロンに目を向けてくれる若者が増えてくれることは本当に有り難いことだと思っております。

床屋今昔についてお話しできたことで理容業についてみなさまに少しでも理解を深めていただければこの業界にとりまして大変の意義のあることと思います。
また、私自身にとりましても大いに勉強させていただけたと感謝しております。
また縁がございましたら、床屋の話に限らずいろいろ情報交換できれば幸いだと思います。

(収録日 2000.2.25)

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Last updated on 2000.2.21