元気力発言所!

「我が人生、我が事業(第1回)」
     ヒガキ国分(株) 相談役
     山口県流通センター卸事業(協) 理事長  
檜 垣 仙 介
     山口県中小企業団体中央会 理事

  
 父の姿の最後の記憶は、私が4歳の時のものである。その日、父と母、
伯母と私の4人は昼食の飯台を囲んでいた。と突然、箸を置いた父が、
胸を掻きむしるようにしてうつ伏せに倒れた。すぐに、電話で呼ばれた
医者がオートバイに乗ってやってきた時は、すでに手の施しようがなか
った。葬儀が行われ、丸い棺に入れられた父を、安養寺にある墓所へ送
る野辺送りの行列に、叔父の背に負ぶわれて加わったことを覚えている。
お寺の前には瀬戸内の塩田が遠くまで広がっていた。

「やねこい」おふくろ

 昭和4年10月30日、防府市で海産物問屋を営む父、檜垣茂作と母、
アキ子の間に私は生を受けた。父は大正7年に海産物問屋、檜垣商店を
開業し、当時は、まだ三田尻駅といっていた防府駅前の公設市場に店を
構えていた。市場に店を持つほか、市内新田の自宅も倉庫兼本店のよう
にして商いをしていた。
 祖父の代にはコンニャクの製造をやっていたらしく、新田の家の倉庫
の片隅にはずいぶん古いコンニャクを作る道具が埃をかぶって置かれて
いた。
 当初、父の扱っていた主力商品は、品質が良いといわれた瀬戸内海産
のイリコだった。当時、秋穂湾周辺などでは、地曳き網で小さな鰯がず
いぶん獲れた。浜ではそれを煮て干してイリコに加工していた。煮て干
すから、煮干しともいう。浜へ行って直接それを買い付け、荷造りして
各地の問屋や小売店へ出荷する。いわゆる集散問屋である。売り先は、
いくらでもあった。仕入れる端から捌いていく、こういう商いのやり方
を地元の言葉で「はねこし商売」という。在庫を持たずに、現金がすぐ
手に入る理想的な商売だった。
 自宅の倉庫には、800匁(約3キログラム)入りのイリコの白い袋
が積まれ、荷馬車で出荷されていった。荷は三田尻の駅で貨物列車に積
み替えられ、下関、広島、岡山辺りまで出荷されていたものらしい。ま
た、品目もイリコから干し海苔、塩干魚、干し椎茸、津和野のお茶など
も扱うようになった。
「浜買い」をすることで、ずいぶん儲けもあったらしい。開業して15
年、一女二男に恵まれ、大きな家も新築した。仕事にも脂がのり、稼ぐ
ことが面白くなってきたころだと思う。さあこれからという昭和8年、
38歳という働き盛りに父は急逝したのである。父は体格が艮かった。
商売を立ち上げ、精力的に発展させてきた。1日に何回も浜と店の間を
自転車往復し、ほとんど1人で荷物の積み卸しをした。そうした無理が
たたったのかもしれない。死因は心不全であった。
 当時7歳の姉、私、満1歳の弟を抱えたまま後に残された母・アキ子
は、生計をたてるために、父の残した家業を引き継ぐ決意をする。母の
実家は、地元の西浦で手広く「万屋」を営む商家であった。そのような
環境に育って、まったく商売を知らないわけではない。
 しかし、嫁いできてからというもの、家事にかかりきりであった母が、
いきなり跡を継ぐのだから、大きな苦労があったことだろう。「大福帳
を見て、売り掛けを取りに行っても、それなら先日、旦那さんにお支払
いしちょりますといわれたこともあった。そういわれても確かめようが
なく、引き下がってくるしかない。心細く、急に死んでしまった父をう
らめしく思ったこともある」と母は当時を振り返って、いっていた。
 母の実家からは、物心両面で相当の援助を受けたものと思う。また、
母の兄弟も、いろいろと力を貸してくれた。とくに薪炭商を営んでいた
叔父・萬谷寿氏は、ほとんど母と共同経営者のような状態で、大黒柱を
失った檜垣商店を支えてくれた。
「アキ子さんは女傑だった」と母を知る人はいう。「気丈である」とか
「負けん気が強い」ということを土地の言葉で「やねこい」というが、
母は、まさにこの「やねこい」おふくろであった。
 商売をするためには、新田の家から三田尻駅前の店まで通う必要があ
った。毎日歩くには、つらい距離である。また、浜買いの仕入れにも
「足」が必要であった。そのために、母は自転車を習う。自転車に乗る
女性はかなり珍しかった。家の前の路地や学校の校庭で、歯を食いしば
り額に汗を浮かべながら自転車と格闘する母の姿はまだ心に焼き付いて
いる。
 自分はそのような苦労をしながらも、私たちきょうだいには、肩身の
狭い思いをさせなかった。私が通っていた萃浦(かほ)小学校では、ま
だ着物を着ている学友が多いなかで、私は「サージ」の洋服を着ていた。
また、母は、私たちの勉学についてもしつけについてもやかましかった。
母子家庭の子供と軽く見られるのが嫌だったのであろう。これも母の
「やねこい」ところであったと思う。
 生き馬の目を抜くような、問屋商売を女の細腕でなんとかしのいでい
るうちに、昭和12年に日中戦争が始まり、昭和16年には太平洋戦争
が開始される。こうしたなか、一般食品が配給制となり、自由に食料品
の売り買いができなくなった。小売店は整理され、地域で限定された食
料品の配給所が指定された。
「銃後の護りは女性から」という国の方針もあり、男たちが次々と戦地
に召集されるなかで、女性の主人であったわが家が配給業務を請け負う
ことになったのである。

戦艦大和の最期の出撃を望む

 防府の沖合、すなわち三田尻沖というところは、下関海峡や豊後水道
を通過する船舶が一時停泊する場所、昔風にいうのなら「風待ちの港」
であった。また、沖合は水深があるため連合艦隊の演習が行われた。沖
合に停泊した船舶から、船員や水兵たちは三田尻港や中関港にランチ
(艀)に乗って上陸し、酒を飲んで騒いだり、気晴らしをするのである。
 まだ戦争が始まる前のことであるが、そういった水兵さんに紹介状を
書いてもらえば、軍艦に乗れるぞという噂が、子供たちの間で流れたこ
とがある。私も神保くんという友人と2人で、町をそぞろ歩く水兵さん
に思い切って声をかけてみた。すると、本当に戦艦金剛に乗せてもらえ、
艦上では海軍専用に作られたラムネまでご馳走になった。これは、学校
でも大いに自慢できることであった。
 また、当時は行乞の僧も多く見かけたが、なかでもひときわ異様な風
体の僧がいた。大人たちが、「ほいと(乞食)の坊ンさんが来た」と騒
ぎ立てていたのを記憶している。その後、私が大人になって種田山頭火
という、自由律の俳人の俳句がブームとなる。この漂泊の俳人、山頭火
が防府の出身であることを知った時にびっくりした。本に出ている彼が
防府に帰って過ごした晩年の写真は、まさに私が子供の時に見た「ほい
との坊ンさん」だったからである。
 昭和17年に小学校を卒業した私は、防府商業学校に進む。旧制中学
への進学を志望しそれなりの成績は上げていた。しかし、これは、母に
「商人の息子は商業学校へ行け」と猛反対をされた。母は父から受け継
いで守ってきた事業を、無事に私に引き継がせたいという強い希望を持
っていたのである。
 しかし防府商業学校で、まともに商業科目を学んだのは最初の2年だ
けであった。戦局が風雲急を告げ、2年生後半から学徒動員にかり出さ
れるようになる。また、学校も、戦争中には商業より工業をということ
で、防府商業学校から防府工業学校に名前を変え、授業も旋盤を操作し
たり製図を描いたりというものになってしまう。
 学徒動員では、中関の陸軍航空隊で爆風除けの掩体壕づくりに行った。
冬、吹きさらしの飛行場で弁当を食べたことはまだ覚えている。3年か
らは東亜化学(現・協和醗酵)の工場へ行って砂糖から無水アルコール
を作る作業をした。これは航空燃料にするのであるが、これを失敬して
晩酌にしている職工さんもいたという。防府商業では市内の工場などへ
の学徒動員だったが、これが山口高校、山口中学、中村女学校といった
学校では、光市の海軍工廠へ動員され、終戦間際の空襲で100人以上
が亡くなったと聞いている。
 防府には陸軍航空隊があったほかに、海軍通信学校と海軍兵学校の分
校があった。私の家は広かったから、そこで勤務する将校たちの賄い付
きの宿舎のようなこともした。昭和20年の春のある日、そのなかの1
人が「沖に山のようにものすごい戦艦が来ているから、見物してこい」
と教えてくれた。早速、友達と連れ立って、近所の桑野山に登った。
この山は、平地に突然盛り上がるように立っている。外様となった毛利
氏が、ここへの築城を幕府に願い出たが許可されず、結局萩に城を構え
たといういわくのある山であり、頂上からの見晴らしはきわめて良い。
 その日、三田尻沖に現れた戦艦は、大和だった。大和の巨大な雄姿は
まるで島のようにどっしりと見え、頼もしく思えた。しかし、その時の
大和は沖縄へ向けて最期の出撃をする途中の停泊だったのである。もの
の本によると玉砕覚悟の出撃にあたり、兵士の中でも1人息子や家の跡
取りといった者には、相応の配慮があり、任務を解かれる者も多かった
という。おそらくそれらの者が、下船していった場所が、三田尻沖だっ
たのである。
 終戦の年、昭和20年に私は4年生だった。その夏には、広島でもの
すごい新型爆弾が落ちたという噂が流れた。原子爆弾のことである。そ
れからしばらくして終戦になった。8月15日は公休日であったため、
玉音放送は、自宅のラジオで聴いた。雑音がひどく、聞き取れなかった
が、戦争が終わったのだなということだけはわかった。

闘病と仕入れルートの開拓

 終戦となり、学校の科目も商業科が復活し、工業科とともに防府商工
学校になった。昭和22年の防府商工学校卒業後の進路に関しては、先
生から税務署に行ってはどうかという勧めがあった。しかし、母は「給
料取りはやめろ」という。(当時は給料取りは低収入で生活が大変だっ
た。今でこそ公務員は人気のある職業だが、当時は、とくに給料も安く
て不人気な職種だった。そろそろ配給のほかに物資も出回りはじめ、家
業の方も忙しくなりそうである。そんなところに就職するより、家業を
手伝えというのが母の意見だった。
 そこで卒業と同時に檜垣商店に入り、手伝いを始めたか始めないかと
いったそんなある日、長門で高校の教師をしている従兄の所に泊まりが
けで遊びに行った時に発熱した。戻ってきて近所の医者で診察を受ける
と、レントゲンを撮ってくれ、「これは大変ですよ。影が映っています」
といわれた。診断は肋膜炎か肺浸潤というもので、結核になりかけの段
階とのことだ。私は小学校も商業学校も無欠席で通していた。健康には
自信があったので、この時はそれほど深刻には考えなかった。
しかし、いつまで経っても熱が下がらない。そこで、防府にあった県立
中央病院へ診察を受けに行ったところ「すぐに入院しなさい」というこ
とになった。
 戦争も終わり、社会に出たとたんに、私は結核病棟で2年を過ごすこ
とになる。同じ病棟に入院していた者は6人いたが、元気になって退院
できたのは私1人だった。当時はまだ、結核は快復の見込みの薄い病で
あった。戦後すぐのことで、十分な医薬品もない。1日1本カルシウム
注射をうつだけで、あとは安静にしているという治療法だった。なかな
か快復の見込みが立たない中でも、私は何とかして元気になってやろう
という信念を持って闘病していた。また、母もずいぶん心配をしてくれ
た。藁をも掴むというのであろうか、ニンニクのお灸を据えるとか菜種
油を特別な器械で噴霧して吸入するなど、さまざまな民間療法を聞いて
きては試してくれた。
 病室では読書をして過ごしたが、そんなある日、科学専門雑誌で、米
国で開発されたばかりの「パス」という結核の特効薬についての記事を
読んだ。その後のヒドラジドなどの特効薬の出る前の話である。母に話
すと、四方八方、つてを探してくれた。そして、ハワイに移民して成功
している人からパスを送ってもらうことができた医者に見せると英語の
処方を読み、半信半疑の様子で「まあ、使ってみましょうか」というこ
とになった。
 そのパスが効を奏したのであろう。その後、私は順調に快復して昭和
24年に病院を出ることができ、さらに1年を自宅療養で過ごし、仕事
に復帰できるようになった。自宅療養の間も母はよく「卵油」を作って
くれた。これは鶏卵の黄身だけを弱火で炒めると出てくる脂で、滋養強
壮に効果があるという。
 私が入院していた昭和22年に、母は町の中心街である栄町に家を借
りて、商売の本拠としていた。
 昭和25年には、姉の結婚相手である松永閑治氏と、萬谷寿叔父の息
子である萬谷末廣くんが檜垣商店に入ってくる。松永氏は陸軍中野学校
の出身で、南方戦線で戦った、非常に頑健な人だった。松永氏と末廣く
んが早朝から、自転車に乗って浜へとイリコの買い付けに行く、病み上
がりの私は、重労働は医者から止められており、店で帳簿付けやお客の
対応、品物の発送の手配などをした。体を使ってバリバリと働く彼らを
見て、少し肩身が狭く、うらやましくもあった。そして、健康になった
ら負けないくらいに働いてやろうと思っていた。昼間は店で働きながら
夕方からは防府商業高校の定時制に通い、戦争中、学校で十分に身につ
けられなかった商業簿記を学んだのもそのころである。
 体力が回復してからは、防府周辺の小売に卸す食料品の仕入先の開拓
に出るようになった。物があればすぐに売れるという時代で、逆にいえ
ば商品調達は非常に困難だった。消費者が欲しがる海産乾物を確保する
ため、まずは、父の代から戦争を経て疎遠になっていた仕入れルートを
掘り起こしていった。母が保管していた古い伝票や帳簿の類をひっくり
返して、萩、仙崎(長門市)といった宛先を訪ねていく。
 そしてまた、新規の仕入先として大きな狙いをつけたのは尾道であっ
た。尾道は瀬戸内はもとより、三陸から北海道辺りまでの海産物が集ま
る集散地で、鰹節、丸干し、塩サバ、塩サンマ、鮭鱒、佃煮、昆布など
の仕入れができた。ほとんどが飛び込みで、なかなか信用してもらえず、
冷たくあしらわれたこともあった。そのなかで、花鰹の・村上商店さ
んは、こころよくおつき合いをしていただいた。村上商店さんとは、今
にいたるまで長くつさ合いをさせていただいている。
 仕入れのルートの開拓はやがて大阪から、九州の方まで広がっていっ
た。仕入れは、まず約束を取り付け、その後、送金する。しばらくして
商品が届くという段取りだった。九州の延岡の方の問屋で千切り大根
(切り干し大根)を発注したことがある。金も前渡ししたのにいつまで
経っても商品が届かない。この時ばかりは「やられたかな」と思ったが、
やがて品物は届いた。大根自体が不作で、さらに天候不良で加工も遅れ
たものらしい。
 こうした精力的な仕入れルートの開拓により、檜垣商店は同業者に品
物を回す「仲間売り」ができるほどの商品調達力を得ることができた。
仕入れの開拓については、商売での信用の大切さを学んだ。(つづく

<企業概要>
●ヒガキ国分梶♂チ工食品、低温食品、酒類の地域一番卸として、国分
グループの中国西部地域の要となっている。平成10年に創業80周年
を迎えた。資本金3,000万円、従業員数160名、パート60名、
年商160億円、本社山口市朝田字流通センター内

【*山口県流通センター卸事業(協)編集「我が人生、我が事業」より】

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Last updated on 2000.4.20