元気力発言所!

「我が人生、我が事業(第2回)」
     ヒガキ国分(株) 相談役
     山口県流通センター卸事業(協) 理事長  
檜 垣 仙 介
     山口県中小企業団体中央会 理事

 総合食品卸を目指す

 昭和26年に檜垣商店を「有限会社檜垣商店」と会社組織にする。こ
の時には、母アキ子は経営から離れていた。私が社長に就任するが、経
営の方針は義兄の松永閑治氏と従弟の萬谷末廣君と三人で協議して決め
ていた。
 会社組織にするに当たっては、扱いを広げて総合食品問屋になろうと
いう方針があった。家庭の食卓もだいぶ洋風化して、ケチャップ、マヨ
ネーズといったこれまで見たこともないような調味料や新しい加工食品
が出回り始めていた。海産乾物ばかりでなく、こうしたものも圏内の小
売店に卸せれば強みとなる。
 こうした加工品の仕入先を求めて、松永氏とともに大阪に行った。松
下商店(現・伊藤忠食品)さん、野崎商事(現・菱食)さん、祭原さん
といった一次問屋を手分けして次々と訪問した。防府の公設市場には、
安村本店さんという加工品の問屋があった。どこも従来からの卸先が防
府市内にあるということで断られてしまった。困り果てて、「それなら
直接メーカーと交渉してみよう」と行ったのが愛知トマト(現・カゴメ)
だった。直接取引はできなかったが、ここで紹介してもらった先が国分
商店さんの大阪支店である。
 その日、私は別の先に回り、国分さんへは、松永氏が向かった。夕方
になって、松永氏が「うまくいきそうだ」と顔を輝かせて宿にもどつて
きた。当時の国分さんの地盤は東日本であり、関西以西では知名度も低
かった。しかし、全国展開を目指して大阪以西に進出したいという方針
はあった。双方の意向が適合して、ここから国分商店さんと檜垣商店と
の長いつき合いが始まったのである。
 国分商店さんからは、小山さんという人が檜垣商店の担当として時々
来ていた。その後担当が高橋良一さんに替わる。高橋さんは、のちにペ
ットフードのエコートレーディング(大証2部)の社長となる人である。
高橋さんは、檜垣商店に来ると1日中店先で四方山話をしていった。そ
うしてお客の流れや品物の動きなどを目配りしていたのだと思う。担当
が高橋さんに替わった頃から、品物を多く回してもらうようになり、国
分商店さんとの取引も拡大していった。
 加工食品を扱い始めて、配達量も増えた。当時は自転車や「バタバタ」
と呼ばれたオートバイで配達をしていたが、奮発して中古のマツタのオ
ート三輪を買った。免許もその時に取った。運動場に荒縄を張り巡らし
たコースで実地試験を行い、翌日学科試験を受けるというものである。
自動車教習所などはなく、自動車の販売会社が合格までいろいろと教え
てくれた。
 このオート三輪を3年くらい使って、今度は新車のトヨペットに換え
た。しかし、買ってすぐ、倉庫に駐車していたところを積荷ごと盗まれ
てしまった。しかも積荷はドライミルクとか味の素とか値のはる商品ば
かりで、泣きっ面に蜂とはこのことであった。輸送手段がなければ商売
にならない。背に腹は換えられず、もう1台新車を買った。しばらくし
て、姫路の方で見つかったとの連絡があり、受け取りに行った盗難車は、
塗装を変えられていた。車が2台あってもしようがないと思いすぐに1
台は売ってしまったが、結局、業績がぐんぐん伸びた時期であり、結局
1、2年後にはもう1台、買い足すことになる。
 商品の確保ということでは、昭和32年頃にキッコーマン醤油さんの
特約店になったことは大きかった。キッコーマンは宣伝も多くされる全
国的な有名銘柄商品だった。その特約店となることは至難であり、「キ
ッコーマン特約店」と書かれた看板は、まさに「金看板」で、それだけ
で信用が倍増した。
 商品は15トンの貨車で届く。日通に頼むと金がかかるため、これを
自分たちで引き取りに行った。一升入りの醤油が10本ずつ木の枠に入
っている。これは、並大抵の重さではなかった。暑い時期には上半身裸
で汗まみれとなって、積降ろしをしたのを覚えている。

「スゥーと消える?」スーパーとの取引

 流通構造が大きく変化した大きな原因のひとつに、スーパーマーケッ
トの存在があげられるだろう。昭和20年代末に日本に現れたスーパー
マーケットだが、この新しい形態の事業とどうつき合ってきたかが、そ
の後の問屋の明暗を大きく分けてしまうことになる。
 昭和28年に東京・青山に開店した紀ノ国屋さんがわが国におけるス
ーパーの始まりとされ、ダイエーさんが32年、イトーヨーカ堂さんが
33年に開店している。山口県内では、防府市内に初めてキャッシュレ
ジスターを導入したスーパーが誕生した。昭和29年のことだから、全
国的に見てもかなり早い誕生だ。これが現在の「丸久」の前身の「防府
専門大店」で、1号店は国道2号線沿いにあった。
 この店を開店したのは、進取の精神に富む、商工会議所の青年部メン
バー9人だった。防府は問屋が多い土地柄だが、そのなかの菓子、衣料、
雑貨、靴、金物、人形、青果といった問屋の若手経営者が集まって新業
態の小売業に乗り出したのである。当然、安い品物の調達が可能で、立
ち上がりから大層繁盛した。
 栄町の檜垣商店の隣に日通の自動車整備工場があり、利便性から、そ
こを使いたいという希望を持っていた。しかし、先を越して契約したも
のがある。それが、くだんの丸久さんであった。丸久さんではその工場
を全部本部兼流通倉庫として使用した。檜垣商店のすぐ隣だから様子は
手に取るようにわかる。品物の出入りも盛んだ。毎晩遅くまで若い経営
者たちが大きな声で経営について議論を闘わせている。最後はコップ酒
を酌み交わし、どんちゃん騒ぎとなる。とても活気があった。
また、店舗もはじめの1年で3店出店した、まさに快進撃といっていい
状況だった。
 9人のリーダーとなっていたのが、有田芳男さんだった。有田さんは
私の店によく顔を出し、「これからはスーパーの時代だ。すべて小売は
スーパーになる。檜垣君、問屋も積極的にスーパーとつき合うべきだ」
と快気炎を店先で上げていった。大正2年生まれの有田さんは、私より
16歳上であるから、当時40歳になるかならないかの歳であったはず
だ。若い世代の経営者が新しいものに賭ける、その熱意に私も強く共感
していった。
 食料品に関して丸久さんでは、安売りで有名な青果商だった石内さん
を仕入部長に据え、その顔で下関方面の問屋と取引をしていた。
檜垣商店との取引は、その時はまだなかった。
 当時、流通業界ではスーパーマーケットのことを、「パァーとできて、
スゥーと消えるからスーパーだ」などといって、信頼をしていなかった。
たしかにそういった店もあり、一時で消える徒花だと思われていたので
ある。
 食品卸の一次問屋がこうした見解を持ち、スーパーとの取引を徹底し
て嫌っていた。また取引先の問屋がスーパーに卸すことに対してもいい
顔はしなかった。一次問屋からにらまれるだけでなく、競争相手との取
引ということで、地域の小売店からの強烈な反発もあった。こうしたこ
とからスーパーに商品を卸すことに二の足を踏む問屋は多かった。逆に
こうした間隙をついて早くから積極的にスーパーに食い込み、大きく発
展した加藤産業のような問屋もあった。しかし、そのなかでも、私は、
おっかなびっくり、周りの顔色を窺いながら少しずつ丸久さんなどのス
ーパーとの取引をしはじめていた。スーパーとの取引に積極的に乗り出
すきっかけは、丸信スーパーの開店である。有田さんは経営上の食い違
いから、丸久さんを離れることになるが、辞めてしばらくして、今度は
自分自身でスーパーを始めるという。これがすなわち、昭和34年創業
の丸信スーパーである。このことを聞きつけた私は、さっそく天神町に
あった有田金物店に出かけていき、あえて取引を申し出た。
 今の私だったらそこまで腹をくくれたかどうかわからない。しかし、
動き出した流れが見え、それに乗る必要を痛感していたこと、そして結
局は経営者である有田さんの、「人となり」に惹かれていたことが、こ
の決断をさせた。「金がなくて困っている」といわれたら、問屋やメー
カーが「それならちょつと貸してやろうか」とこちらからいいだしてし
まうくらいの「カリスマ性」ともいうべき魅力を有田さんは持っていた。
丸信スーパーは、店舗も土地も自社物件とする戦略をとり、一時は東京
に2店舗出店をするはどの大攻勢をかけることとなる。
 丸久さん、丸信さんといったスーパーとのつき合いは、当社の発展に
大きなメリットをもたらした。当時の卸はほとんどは広域流通をやって
いなかった。山口県には10数の市があるが、その地域の狭い商圏での
商売が常識だった。檜垣商店では、早くからスーパーマーケットとつき
合うことによって、その多店舗化にあわせて流通のテリトリーを広げて
いった。新規に出店したスーパーを拠点にその近辺、配達する沿線をす
べて商圏に組み込んでいったのである。
 有田さんには、もう1つ大きな世話を受けたことがある。これはずっ
とのちの昭和42年の話であるが、商売も拡大して、別会社を作って海
苔の商売に手を出した。よその会社のベテランを引き抜き、加工と卸を
始めたのである。海苔はきわめて相場性の高い商品で、商売の妙味もあ
った。品物も少ない時代で浜に行って買いつけると、大きな儲けが手に
できた。しかし、この頃から養殖が盛んになり、商品が安定供給される
ようになる。そこで昔ながらの、投機的な海苔の商売をやっていたとこ
ろは苦境に陥る。その会社も、取引先の倒産に引っかかり、檜垣商店で
保証している手形が落ちないことになってしまった。
 連絡を受けて、あわてて有田さんの所へ相談に行った。すぐに必要な
金は4千万円である。有田さんは、すぐに担保保全の手続きをしろとい
った。また、金は国分商店さんに手形を待ってもらえとアドバイスして
くれた。檜垣商店は国分にとって必要な会社なのだから、助けてくれる
はずだと有田さんはいった。
 当時は宇部山口空港から大阪便が就航していた。有田さんはすぐに私
とともに飛行機に乗り、国分さんの大阪支店へ行き交渉をしてくれた。
そしてその場で保証人になってくれたのである。この時の借入金は、1
年半で完済することができた。いち早く担保保全して押さえた土地が値
上がりしたためである。その有田さんも、丸信さんの経営に当たってお
られたさなか、昭和46年、58歳の若さでこの世を去った。有田さん
が亡くなった時は、まるで肉親を亡くしたような気がした。

 仕入れのバリエーションの拡大と冷蔵倉庫

 私が妻・松村テイ子と所帯を持ったのは昭和30年のことである。防
府商業学校の恩師である村川教頭先生の紹介で知り合った。彼女は国鉄
マンの娘で、広島銀行の防府支店に勤めていた。妻の父は、国鉄では山
口県出身で東大出の佐藤栄作・元総理大臣と同期である。最初の赴任地
が佐藤さんと一緒の九州の鳥栖駅で、2人で駅の便所掃除をやったもの
だと、人生訓として話をよく聞かされた。また義母は、佐藤栄作氏の妻、
寛子夫人とも旧知の間柄で、生涯を通じて大変懇意にしていただいたと
いう。
 昭和も30年代になると食生活の変化にあわせて、いろいろな加工食
品が食卓を賑わせはじめる。こうした新しい加工食品が、伝統的な干物
や乾物に替わって売上に大きなウエートを占めていくようになる。大洋
漁業(現・マルハ)の魚肉ソーセージ、粉末ジュースなどがあり、「マ
ルハ」のソーセージは檜垣商店でも取り扱ったが、飛ぶように売れた。
 もっとも画期的であったのがインスタント食品の登場であろう。イン
スタント時代の幕開けとされる日清のチキンラーメンの発売は昭和33
年であるが、「丸福ラーメン」という商品が同じくらいの時期に販売さ
れていた。チキンラーメンは入荷が間に合わない状態で店で見かけるこ
とも少なく、地元で親しまれた商品という点では丸福ラーメンに軍配が
上がった。いまはもうなくなってしまったが、丸福ラーメンは、棒状に
束ねたまっすぐな麺にスープが付いているもので、九州の久留米の方の
メーカーが作っていた。昼休みに営業マンがガスコンロと丼持参でやっ
てきて試食させてくれたが、一口食べて「これはいける」と思った。案
の定これはヒット商品となった。防府の特約店となり、一手に引き受け
ることで、大きな収益を上げることができた。
 こうした新しくて魅力的な商品をいち早く知り、売れ筋の商品を確保
することが、卸にとってのチャンスにつながる。そういった面でも昭和
31年に防府市八王子に冷蔵倉庫を持ったことは、強力な武器となった。
これは、山口銀行から600万円の借金をして建てた。はじめて借金を
して行った設備投資で、これは大きな冒険であった。同じ年に檜垣商店
も有限会社から株式会社へと改組している。
 冷蔵倉庫設置の動機は、那珂湊、気仙沼あたりからの塩干品の扱いに
あった。これまでは、尾道の問屋から、前の日に積み込んだ商品が、翌
日急行便で届くというものであったが、冷蔵庫を持ってからは、サンマ
の開きや塩サバ、イワシの目刺しといった商品が冷凍貨車で運ばれてく
る。季節に貨車3台分というように大量発注する。中の問屋を抜き、大
量発注することで、仕入単価は大きく下がった。また、「指し値委託」
というやり方で、あらかじめ卸価が決められており、のちの販売価格は
こちらの裁量に任せてくれるというもので、商売の旨みはあった。
 秋の味覚の代表というが、われわれ瀬戸内の人間にとって地場で獲れ
ないサンマは「戦後の魚」である。低温流通の発達していなかった戦前
には店頭に並ぶこともなく、サンマの開きや塩サバは珍しがられた。ま
た、値段も安く味もいいということで、その頃ずいぶんサンマやサバが
食卓に上ったことと思う。
 そのうちに雪印乳業からアイスクリームをやってみないかという勧誘
があり、昭和33年に特約店となった。固いアイスキャンディーは、夏
になると旗を立てた自転車がやってきて、私も買った覚えがあったが、
白くてミルクとバニラの香りのする柔らかいアイスクリームは、それと
はまったく別物の感があった。そのような高級品とされていたアイスク
リームが、徐々に普通のお菓子屋やパン屋の店頭でも買えるようになっ
てきていた。
 すぐに電気式になったが、始めた当時は、マホウビン式が使われてい
た。店先にはブランド名が描かれた円筒型のケースが置かれ、なかにカ
ップ入りとスティックタイプのアイスクリームが入れられる。アイスの
上にはドライアイスの固まりが入れられた。ケースの容量自体もあまり
大きくはなかったし、電気式のように、いつまでも温度を保つというこ
とはむずかしかった。頻繁な補充が必要で、そのためには地域を細かく
分けて、在庫を持てる販売の拠点を確立しなければならなかった。そこ
で、防府地域ではすでに冷蔵設備を持った当社に、白羽の矢が立ったの
である。
 当時のアイスクリームは、利益の面ではまさに優等生だった。小売店
に配達に行くとすべてその場での現金取引で、儲けも大きかった。夏の
暑い日には3回も4回も補充に行くという状況だった。  (つづく

<企業概要>
●ヒガキ国分梶♂チ工食品、低温食品、酒類の地域一番卸として、国分
グループの中国西部地域の要となっている。平成10年に創業80周年
を迎えた。資本金3,000万円、従業員数160名、パート60名、
年商160億円、本社山口市朝田字流通センター内

【*山口県流通センター卸事業(協)編集「我が人生、我が事業」より】

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